自分の人生が見えなくなりそうなときは思い切って足を止めてもいい

気づけば、毎日何かに追われるように過ぎていく。
仕事、家事、育児、社会とのつながり。
”こなすべきこと”は山のようにあって、
1日が終わる頃には、自分のことを考える余裕なんて残っていない。
「このままでいいのかな」
「私の人生、どこに向かってるんだろう」
ふとした瞬間に、そんな気持ちがこみ上げてきても、
それをちゃんと考える時間も、気力も、持てないまま、
また朝が来て、新しい1日が始まっていく。
忙しさの中で、自分を見失うということ
現代を生きる私たちは、
「止まらずに走り続けることが良いこと」だと、どこかで刷り込まれています。
- 常に動いていないと取り残される
- 休むことは怠けること
- がんばっている自分に価値がある
そんな空気の中で、
無意識のうちに“頑張ること”がアイデンティティになっている人も多いのではないでしょうか。
でも、そうやって動き続けているうちに、
だんだんと「自分がどこに向かっているのか」が分からなくなってしまう。
忙しさに流され、誰かの期待に応え、目の前のタスクに追われる毎日。
ふと立ち止まったときに感じるのは、
“生きてはいるけど、生きている実感がない”という、空虚さかもしれません。
私自身、過去に仕事、仕事の毎日で、生活も充実しているけれどどこに向かっているのだろうかと思うことが以前ありました。
止まらずに走り続けることに価値があると思い込んでいた結果、
いつしか進むべき方向性を見失っていたのかもしれません。
「足を止めること」は、怠けではない
社会の風潮に逆らうようで、勇気が要るかもしれませんが、
足を止めることは、決して怠けではありません。
むしろ、今の自分と人生の軌道を重ね合わせるために、
本当に必要な時間だと、私は思います。
植物が根を張るには、目に見えないところでの静かな成長が欠かせません。
人間も同じです。
内側に意識を向けるためには、静けさが必要です。
走りながらでは、見えないものがたくさんある。
焦りや不安に突き動かされるまま選んだ道では、
どこかで自分の輪郭が曖昧になっていく。
立ち止まってこそ、自分の本音が聞こえる時間が訪れます。
立ち止まって、見えてくること
足を止めて、静かに自分に問いかけてみる。
「今、私はどんな気持ちで毎日を過ごしてる?」
「何に疲れている?何に喜びを感じてる?」
「このまま進んだ先に、本当に望む未来はある?」
最初は何も出てこなくてもいい。
でも、自分の内側に目を向ける時間を持つことで、
少しずつ見えてくるものがあります。
- 本当はやりたかったのに我慢していたこと
- 誰かの期待を優先していたこと
- 気づかないふりをしていた違和感
それに気づけたとき、
ようやく“自分の人生を自分で選ぶ感覚”が戻ってきます。
休むこと、手放すこと、整えること
立ち止まる時間には、いろんな意味があります。
- 無理して続けていた何かを手放すこと
- ずっと後回しにしていた自分をケアすること
- やるべきことと、やらなくていいことを見極めること
今の社会では「がんばる」がデフォルトになりすぎています。
でも、本当の意味で人生を前に進めるには、
「がんばらない時間」も必要です。
何も生産しなくてもいい。
意味のある時間じゃなくてもいい。
ただ、“何もせずに在る”ことで、整っていくものが必ずあります。
人生を、自分のペースで取り戻す
「足を止めても、誰も助けてくれない」
「止まったら、置いていかれそうで怖い」
そんなふうに感じるかもしれません。
でも、人生はマラソンではありません。
人と比べるものでも、常に先を目指さなければいけないものでもない。
あなたの人生は、あなたのペースで進めばいい。
たとえ少し立ち止まったって、
そのあとまた歩き出せばいい。
むしろ、その一歩は“本当に自分の望む方向”に向かっているはずです。
最後に
自分の人生が見えなくなりそうなとき、
無理に進まなくても大丈夫です。
焦らなくていい。
立ち止まっていい。
何も決めなくていい。
ただ、自分の呼吸に耳をすませて、
「今、どうしたい?」って問いかけてみてください。
答えが見つからないなら、
“見つけようとしている自分”を優しく抱きしめてあげてください。
人生は、走るばかりじゃなくていい。
止まることも、立ち返ることも、全部あなたに許されている。